越前漆器の歴史

 
継体天皇の冠
  
 「6世紀、継体天皇がまだ皇子だったころ、誤って冠を川に落としてしまった。河和田の塗師が漆で美しく修繕したところ、見事な出来映えにいたく喜ばれた。河和田で漆器づくりを奨励するとともに諸国入山随意、諸役免除の特権を与えた。」 
 伝承によると、1500年以上も前から鯖江市河和田地区では漆器づくりが営まれ、 905年の記録では、漆を正税とする国名の一つに越前国が挙げられております。 室町時代の頃からは、浄土真宗が広まるにつれて、報恩講などの仏事に盛んに使われるようになりました。江戸末期には、京都から純流という蒔絵師が河和田を訪れて、蒔絵の技術が導入され、美術品が生産されるようになり、その後、輪島から沈金の技術も伝えられ、いっそう磨きをかける要因になりました。
越前漆器は日本でも有数の歴史の古さを誇る漆器の産地で、1975年には、国指定伝統的工芸品の指定を受けました。

 

 

 

漆の木とチャンポ

漆かき

  漆の木にかき傷をつけながら漆液を採集する人の事を「漆かき」と呼びます。 最盛期には全国の漆かきの大半を、河和田出身者で占められていたと言われています。 日光東照宮を建てるとき、徳川幕府は大量の漆液の採集を越前に命じたとか。 越前の漆かきがどんなに高く評価されていたのかが分かります。
 漆かき職人に河和田出身者が多かった原因としては、農耕が適さなかった事と、鉄製の刃物の産地が近かった事が考えられます。   なかでも、粟田部で作られた鉄器は最も優秀で、漆の採集の道具である「カワハギガマ」「ヘラ」などが数多く生産された事に寄ります。
 カワハギガマは漆の樹の荒皮をけずる時に使用し、漆の樹液はヘラでチャンポに採集します。
現在、鉄製の刃物の産地として、タケフナイフビレッジが伝統を継承しています。

          漆かきの道具

 
漆文化
 日本の漆はいったいどこからやってきたのだろうか?
これまで、漆は中国大陸の長江流域などから日本列島に伝わったと考えられてきた。 中国江南地域、浙工省の河姆渡(かぼと)遺跡から、東シナ海を越えて九州へ入るか、対馬暖流に乗って山陰や北陸に至る「南のルート」が想定されている。
 その傍証として挙げられるのが栽培植物の存在だ。大量の漆器品が出土した鳥浜貝塚(福井県三方町)では、南方系のヒョウタンやリョクトウ、漆の精製にも使われるエゴマといった栽培植物が見つかっている。 ただ、北方の栽培植物であるゴボウやアサも出土している。
 漆製品が多く見つかっている遺跡は、北海道や東北地方の列島北部に多く「北ルート」も捨てがたい。
 2000年8月に垣の島B遺跡(北海道南茅部町)で出土した漆塗り製品「櫛・腕輪・数珠状の玉」の年代は縄文早期、九千年前にさかのぼり、今まで世界最古級と言われてきた中国浙工省の河姆渡(かぼと)遺跡から出土した漆より二千年も古い。 漆は日本古来の物か?
 青森県の三内丸山遺跡から出土したウルシの種子をDNA分析した、佐藤洋一郎氏(静岡大教授)は、「中国型とは違う日本型のウルシの木があったことが分かった」と語る。 更に、島根県松江市の夫手(それて)遺跡では、1998年9月に内側にウルシ液がびっしりとこびりついた容器(土器)が出土し、放射性炭素による分析の結果、年代的には河姆渡(かぼと)遺跡と変わらない約六千八百年前の遺物と判明した。
 しかも土器は、漆製品を作る際に使われた道具で、漆は塗料として良質なものに精製されていた。 この事から、「夫手(それて)は漆の生産拠点だったことは、ほぼ間違いない」と、鑑定した永嶋正春氏(国立歴史民俗博物館助教授)は強調する。
                                福井新聞(よみがえる 漆文化より)

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